女遊びに明け暮れる男の日記

旅行先での女遊びの話などをここに書きます。

面接のついでに、渋谷道玄坂(道玄坂、円山町)、のんべい横丁を歩いてみた(渋谷駅:東京)

渋谷の道玄坂、円山町と言えばヘルスやストリップ、そして数々のラブホテルやHグッズ屋が完備されているという戦闘地域としておなじみの場所だ。まずは道玄坂周辺の写真を撮ったので見て欲しい。

道玄坂

まず道玄坂に着くとストリップの「道頓堀劇場」の看板にぶち当たる。なかなか目を見張る建物だ。

送信者 渋谷道玄坂

さらに歩いて行くと、「孤独のグルメ」でもちょっこと出てくるラーメン「喜楽」に ぶち当たる*1。かなりの大盛況。

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円山町

お次は円山町。wikipediaに依れば、円山町は江戸時代は宿場町として、明治時代以降は花街として機能していたらしい。

江戸時代には甲州街道脇街道であった大山街道厚木街道矢倉沢往還)の宿場町(ただし、人馬継ぎ立場ではない)として栄え、明治以降も花街として続いた。

円山は江戸時代から大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887年(明治20年)頃、義太夫流しをなりわいにしていた人が、弘法湯の前で宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有だったため、「荒木山」と呼ばれていた。

円山町は1913年(大正2年)に、 芸妓置屋24戸、芸妓60名、待合茶屋13戸をもった1万5千坪が三業地として指定された。1919年(大正8年)2月には、渋谷三業株式会社を創立して隆盛期に入る。1921年(大正10年)には、さらに芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒、関東大震災直前には芸妓420名を数えた。1980年ごろまで三業界のにぎわいは続いたが、時代の変遷とともに料亭の数も減っていった。1970年(昭和45年)1月1日に住居表示が実施された[1]。


エログッズ屋

ラブホ街の付近には、このようにきちんとエログッズ屋が完備されており、即座にやりたいことを実現できるような素晴らしい構造となっている。

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カフェーのような建物

そんなこんなで歩いていると、カフェーのような建物に出くわす。黄色一色なのが又目立っていて素晴らしい。

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ラブホテル(昼)

ここからはラブホテルの建物を一杯載せて行きます。一面ラブホテルだらけで、選び放題なのが又良い。

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ラブホテル(夜)

夜になると卑猥な雰囲気を出させてくれ、非常に風情のある光景が見る事ができる。


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道玄坂(帰り)

今度はこのように、帰り際を撮ってみた。ヘルスの看板が又目立っている。

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のんべえ横丁

こういった宿場町だけでなく、渋谷には「のんべえ横丁」と言う名の横丁が存在する。「渋谷ステーション」に依れば、

「のんべい横丁」は、戦後すぐ、現在の東急本店通りで屋台を営む人たちが集まり、昭和25年につくられた飲食店街です。

東急本店通りは国の規制により、屋台が集まっていた区域での営業ができなくなりました。そして、国が指定する地域に移転したのが、現在の横丁となっていま す。店舗は抽選で行われ、屋台のサイズという条件が指定されました。横丁の少人数の店舗のつくりは、そういった経緯の名残となっています。その頃を知る ”おかあさん” 達が未だ現役としている店がこの横丁では幾つもあります。ひとりの ”おかあさん” のもと、横丁の変わらぬ店で、三代に及ぶ "なじみ客” も少なくありません。昭和の生き証人のような店もあり、当時の話を今でも聞くことができます。

当たりを歩いていると柳の木や、提灯がまた雰囲気を際立たせる。ここまで現役な横丁も珍しく、貴重な光景だ。


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